原稿用紙の罠
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平々凡々な大学生、西川 守は火曜日の二限という空き時間を利用してミス研の部室で本を漁っていた。三時限目には外せない授業が控えていて、自宅まで帰るのは億劫だけれど他に時間をつぶす場所もないという今日のような時、守は部員でもないのにここをよく利用する。
部員達も、変人の集まりであるこのサークル内でさえ変人と名高い真壁 直人が連れてきた守が、こうして部室にいることを許容してくれている。いっそのこと部員になってしまえば、と言われることもあったし、守もそう思わないでもないのだが、部員になってしまうと“奴”から逃げられないことが決定的になってしまうような気がして決心できないのだ。部員でない今でも逃げられていないことはこの際置いておいて。
「西川先輩だ、やほー!」
提出期限の迫ったレポートもないし、ということで部室に置いてあるミステリ小説を読んでいた守は、部室に入ってきた正規部員の今井 杏奈に声をかけられて顔を上げた。
「やほー……。場所借りてるよ、杏ちゃん」
登山途中に向こうの山からかけられたような挨拶だなと思いつつも、守は杏奈に合わせて片手を顔の横まで上げて答えた。
「どうぞ、どうぞ……って、すっかり定着しちゃったなぁ、その呼び方」
今年2回生の杏奈は、ミス研で貴重な女性部員である。ミス研の女性部員は今のところ平野と杏奈、この二人だけなのだった。
「嫌いなの? だったら言わないけど」
丁度自分の真向かいにあったパイプ椅子に腰掛けた杏奈は、ジーンズのタイトスカートに複雑な網目模様のストッキングと黒のロングブーツという格好だった。下半身にばかり目がいってしまうのは、この部室で拝めるスカート姿というのが彼女くらいしかいないせいだろう、と守は思う。
「別に嫌なわけじゃあないですけど……なんだか餡子みたい」
少しぽっちゃりめの杏奈は、もこもことした毛の生えた鞄――まるで何かの生き物のように見える――をテーブルに置いて、可愛らしく頬を膨らませた。守は再び視線を本に戻しつつもそつなく杏奈に応えて言った。
「可愛いじゃないか。それに俺、餡子好きだよ」
漉し餡も悪くはないけれど、できれば粒餡がいい。守がごく普通にそう言ってみせると、杏奈はちょっと驚いた顔をしてから言った。
「……西川先輩って、結構タラシだ」
守は開いた本の字を追いながらその言葉を聞いていたので、どこか不満げに潜められた杏奈の声がはっきりと聞き取れなかった。
「からし?」
西川先輩って、結構からしだ。一体それはどういう意味だろう。辛い男、という意味なのだろうか。変に甘いよりはいい男なのか、それは。ミステリ小説よりもよほどミステリだ、と守が思ったところで、今度は耳が痛くなるくらいにはっきりとした声で杏奈が繰り返した。
「タラシ! ミス研には絶対に入らないタイプ」
西川先輩って、結構タラシだ。それなら言葉の意味には悩まない。けれどどうして杏奈がそういう風に思ったのか、ということに関しては疑問が残る。
「そう言われたのは初めてだよ。あ、前者の方ね。後者は何回か言われたことがある」
主に直人に関わることで守が被る害を知っている人達が善意でそう言ってくれた。
「でしょうねぇ……。ところで今日、真壁先輩は?」
一緒ではないのかと尋ねる杏奈に悪気はない。しかしどうにも、自分と直人をワンセットに考えるというのはもう定着してしまっているのだろうかと守は悩まずにいられない。ミステリ部員に限らず、最近では守の知り合いでもない生徒から直人の行方を訊かれるようになってしまって困る。
「この時間は講義を受けているはずだよ」
そして直人の行方を把握している自分も自分だけれど、と守は思った。仕方がない。自衛のためだから。
「じゃあ、平野先輩は?」
「……どうしてそこで平野が出てくるかな。生憎、医専の授業まで把握してないよ。講義か、それとも図書館かな」
努めて――何故努めなくてはいけないのかがそもそも謎なのだが――その話題には興味がなさそうにして答えると、杏奈はそんな守の努力を鼻で笑った。
「西川先輩と平野先輩は付き合っているんじゃあないんですか?」
「残念ながら、そういう事実はないね」
と、守は本当に残念そうに告げた。杏奈は守の答えに納得できなかったようで、すでに傾げていた首をさらに曲げた。苦しそうな角度だ、と思った守だけれど、杏奈は平気そうな顔をしている。
「でもチョコレートもらったでしょう? 平野先輩から」
杏奈の言葉に、守は先々週に行われたミス研のイベントを思い返した。雪の上に横たわる電子辞書サイズの甘い奴は何者かに殺害されてしまっていた。彼女――だと平野が言った――は犯人を見つけてくれる探偵を、冷たい雪の上で待ちわびていたのだ。
「あれは……チョコレートという名前の被害者だから。それにもらったというよりは、獲得したんだよ」
それはもう、必死になって。
「獲得したかったんでしょ?」
こういうとき女の子は鋭く、そしてストレートだと守は実感する。
「……そりゃあね」
それだけが目当てで、今年もあの推理大会に参加して勝ちましたとも。どうしても自分が欲しかった、というのもあるし、他の奴に渡したくなかったというのも守の正直な気持ちだった。
「あ、案外素直に認めた」
杏奈がどこか面白くなさそうにコメントする。守は多少の照れ臭ささは覚えつつも、滅多にない機会を活用して訴えた。
「たまには言わせてくれ。直人がいると言えないんだ。全く不可解なことに」
その不可解さを十分に理解してくれている杏奈は、同情の溜息を漏らしてくれた。
「平野先輩と二人きりのときに言えばいいのに」
むむっ、やはり女の子は少しデリカシーに欠けるところがある。それを守が考えたことがなかったとでも?
「……二人きりになれたら」
「言う?」
「……言う、かも……」
所詮守は男の子だから、女の子ほどストレートに切れ味の良い言葉を返すことはできなかった。
「平野先輩綺麗で頭が良いから、うじうじしていたらすぐに他の男に持っていかれちゃうんだから!」
「おっしゃる通りで……」
反論する気も起きません。全面降伏した守に、杏奈はこれみよがしな溜息をついた。本当に仕方がないんだから、という言葉が漏れそうな杏奈の顔に、何となく実家の母親を思い出してげんなりした守だった。まぁ、許してあげると一方的に許された雰囲気の守は、手にした本に逃げ込もうと思ったのだけれど、実家の母親よりはまだ優しい心遣いのできる杏奈に違う話題を持ち出されて、ほんの少しだけ安堵した。
「西川先輩って……どうして真壁先輩とお友達になったんですか?」
思い切り安堵するには、その話題は微妙だ。直人の話はできれば避けて欲しかったのだけれど、一度全面降伏した身だから我侭は言えない。
「友達になった、わけじゃあないよ。あいつが一方的に俺に近づいてきたの」
そう、あれは確かに五月の連休明けだった。一年次にはまだ共通科目が多く、確かに他の学部生と一緒になることもありえる状況だった階段教室で、守は真面目に汚い白衣を着た――もうすでに白衣ではない――中年教授の授業を聴いていた。隣に座った男は授業開始の少し後に階段教室に姿を現し、そして守の隣にどっかと腰を下ろすと鞄の中から十数枚の紙束を取り出した。
そんな様子を目の端にとらえながらも、守の視線は教授と自分のノートとを行き来していた。しばらく隣のことなど忘れていたのだけれど、授業時間が半分ほど過ぎたとき、机の上についていた守の肘にかさりと何かが当たった。
守はそれに気付いて隣を見た。すると腕に当たっているのは今時珍しい升目の入った原稿用紙。それも束で。隣に座った男が取り出していたのはこれだったのか、と思いつつ、何気なく守はその升目を埋めている文字を読んだ。書いていたのだろう本人は、授業も原稿用紙も放棄して机に突っ伏しているから、少しだけ覗くつもりで守は多少角の尖りすぎた文字をなぞる。それはミステリか探偵小説と呼ばれる類の話だったらしい。丁度探偵の台詞が書かれた部分が守の目に飛び込んできた。
『凶器はこの孫の手です。犯人はこれで被害者の後頭部を殴りつけ、あまつさえ服を脱がせて……』
その文を読んだ瞬間、守の頭の中を疑問符が猛牛のように駆け抜けた。掻いたのか? 孫の手だから、背中を掻いた? そもそも孫の手って、人の頭殴って昏倒させるくらい丈夫なものなのだろうか。守の頭に浮かぶ孫の手といえば、竹だが木だかで作られた、持ち手と先だけが太くてあとは細い棒というスタイルなのだ。叩き付ければその細い棒の部分が簡単に折れてしまいそうな。
そんなものが本当に殺人の凶器になりえるのだろうか。それ以上に、その場に孫の手が転がっていて、思わず殺人の凶器に使ってしまえる家など今時あるのだろうか。それとも犯人は孫の手に何か思いいれがあって、あえてその凶器を殺人に使い、現場に置いて行ったのだろうか。
あぁ、でもそんなことよりも問題は『服を脱がせて』の後だ。
掻いたのか? 何か理由があって? 背中に何かメッセージでも書いたのだろうか。孫の手で。それはちょっと猟奇的? いや、一歩間違えればコメディだろう。駆け抜けた疑問符が戻ってきて脳内で乱舞し始めた頃、丁度授業の終わりを告げるベルが鳴った。机に突っ伏していた男は、それを見計らったかのように勢い良く立ち上がり、原稿用紙を片付けようとする。
「……その続きはどうなるんだ?」
守は思わずそう声をかけていた。すると原稿用紙をまとめる手を止めて、男はニヤリと笑った。
「気になるか」
そりゃあ。だって、凶器は孫の手なのだ。
「もちろん」
その言葉に嘘はなかった。そう答えれば続きを読ませてもらえるのかと期待したということもあるが。だから守は相手の答えを待った。続きを書いたら読ませてやる、とか実はもう最後までできているのだ、とかいう言葉を待ったのだ。けれど、守の言葉に男は眉間に皴を寄せた。そして溜息と共に一言だけ。
「……失格」
と言った。何が? と声をかける間もなく、その原稿用紙男は守には想像もつかない理由でプリプリと怒り、階段教室を出て行ってしまった。
「これが奴と俺の出会い」
守が語り終わると、杏奈は謎が解けて喜ぶ探偵助手のように――実際喜ぶのは探偵ではなく助手のほうだ――目を輝かせた。
「分かりましたよ! 真壁先輩がどうして怒ったのか」
嬉々として身を乗り出した杏奈に、守は苦笑して答えた。
「俺もミス研に出入りするようになって知ったよ」
こうして部室にあるミステリ小説を読むようになって、直人の言動の謎は解けた。つまり――。
「真壁先輩は、西川先輩にこう答えて欲しかったんですね?」
せーの、と掛け声をかけたわけではないのに、守と杏奈の声はぴったりと重なった。
『Absolutory』
一呼吸おいて、杏奈は盛大に笑い出した。守の方はただ溜息を漏らしただけだ。
「……そんなの答えるわけないだろう」
俺は何人だ、と守は続けた。杏奈はそんな守の言葉にしきりに頷いて見せた。
「普通の日本人大学生は答えませんよねぇ」
杏奈はそう言ってケタケタと小気味良く笑い続ける。
「でも、そこで友達失格になったはずなのに、どうしていまでも西川先輩は真壁先輩に追いかけられているんでしょう?」
「そこが謎だよ。俺にもね」
推理作家の卵が首尾よく卵を割って推理作家になったとしても、その友人が――だということにしよう――首尾よく名探偵になりえるだろうか。あいにく守には院に残って助教授になる将来は考えることができないし、まして名探偵になって直人を喜ばせてやる義理もないのだ。そして何よりも、直人が推理作家になる可能性が守には計れない。
新入生の皆さん、推理作家の卵が撒き散らす罠にはくれぐれも注意しろ。